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西浦商事





なぜ茶陶伊賀は生まれたのか?

 伊賀も信楽と同様その窯は古くからあり、室町 時代には農具や雑器が焼かれたようで、現在壺類が伝存していま
す。しかしその当時の伊賀は信楽と同じ三郷山から陶土を採るため、両者の判別が難しく、信楽 の中に紛れ込んでい
る伊賀陶器も多くあると思われます。
 桃山時代になりますと、花入、水指を中心とする実にすばらしい茶陶が焼かれました。これは時の伊賀領主(筒井
定次、藤堂高虎、高次)が利休、織部、遠州 らの茶匠らと親しい間柄にあり、伊賀の陶工たちに指導が行きわたった
ために成し得た事だと思います。
 伊賀で茶陶が焼かれるようになったのは、筒井(1562〜1614)大和郡山城主筒井順慶の養子で、織部の弟
子としてすぐれた数寄者)が伊賀領主となっ た天正13年(1585)頃からと推定され、この頃から定次が改易に
なる慶長13年(1608)までに焼かれた茶陶を筒井伊賀と呼んでいます。
 それらは主に阿山町の槇山窯および伊賀上野城内の窯で焼かれたと考えられています。そして利休、織部はこれら
の窯の指導にたっていたと思われます。
 筒井定次改易後、伊賀領主となったのは藤堂高虎(1556〜1630 浅井長政、秀吉、秀長に歴任。関ヶ原、大
坂の陣にも戦功をたて、32万石を領有。家康、秀忠の信任を得て幕政の枢機に関与)であり、高虎没後は二代高次
が 領主となっています。この間、主に丸柱窯で焼かれた茶陶を藤堂伊賀と呼んでいます。
 二代藤堂高次は茶の湯の造詣が深く、寛永12年(1635)には京都より陶工を二人呼んで丸柱窯で指導に当た
らせています。伊賀従来の力強さに京都の瀟 洒な風格が加わり、この時期に高次と義兄弟である遠州の好みが多く焼
かれていたのではないかと思われます。
 その後、寛永時代の終わり頃、藤堂伊賀は廃窯に至り、昭和期より現在の阿山町丸柱を中心とした土鍋や行平の製
造と、伊賀上野を中心とした茶陶制作という 現状となりました。

資料提供:遠州茶道宗家
「遠州流茶道 綺麗さびの世界」  小堀遠州の茶の湯 http://www.enshuryu.com

月ヶ瀬粘土
採掘の歴史
 月ヶ瀬村石打は、粘土鉱物に恵まれ、古くから認知されていたようです。江戸時代末期には藩の手にり、ウニ(泥
炭)が採取されたと伝わっています。
 明治時代には、坑道が掘られ採掘されていたようですが、当時採掘していた鉱物名、出荷量は不明です。 
-坑道堀り-
 採掘方法の一つで、人間が立って歩けるほどの穴を掘り、鉱層に沿って、つるはしとジョレンという竹で編んだ運
搬具で掘り進む方法です。石打近辺では、昭和 40年頃までありました。その前後から重機が導入され、露天掘りと
いう鉱山の表土を捨て、上層から各層毎に採掘する、現在の方法に変わってきました。
 月ヶ瀬村史によると、日華事変、太平洋戦争の頃を最盛期とし、昭和18年から昭和27 年までに、採 掘に携わる
人口が、九州からの技術者を中心に300人に達していたことがわかっています。(当地区の人口は現在約600人)
また、当時の採掘業者によると、昭 和32年から33年をピークとする全盛期には、坑道掘りで毎月1,000トン(大型
ダンプ1台は10トン)の出荷があり、掘れば何でも売れるという時代で あったようです。
昭和39年、黒崎窯業の進出を境に、耐火物原料から陶磁器用として、信楽、岐阜、四日市などの産地への供給が増
え、現在も碍子や衛生陶器、磁器土の原料に も月ヶ瀬近辺の粘土が使われています。
 −地質−
 500万年前、古琵琶湖が現在の伊賀盆地付近に発生し、時代とともに北西方向に移動しながら、250〜300万年
前には甲賀・伊賀地方で最も発達しまし た。その後、地殻の大変動により、大量の砂礫が流れ込み150万年前に
は消滅しました。この古琵琶湖の存在により堆積した粘土が、伊賀地方の新生代層の大 半を占める古琵琶湖層と
呼ばれ、標高150〜250メートルの比較的低地に分布しています。
尚、古琵琶湖は、現在の琵琶湖の一部ではなく、古琵琶湖と琵琶湖は別々に存在した湖盆です。ちなみに、現在の
琵琶湖は250万年前に発生したようです。

参考資料  月ヶ瀬村史
口述協力  (有)福本商店 代表取締役 福本房俊


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